朝倉同名衆其の一 朝倉掃部助景頼

 

天正元年(1573)八月十三日夜。退却中の朝倉軍は刀根坂で織田軍から追撃を受け、壊滅的な状況に陥った。この戦いでは多くの武将が討ち取られ、朝倉家の滅亡に繋がった運命の一戦である。太田牛一はこの時討ち取った者の名前を『信長公記』に書き記している。

 

 

「中野内ロヘは雑兵を退げ  朝倉左大夫(義景)名ある程の者どもを召し列れ  敦賀をさしてのがれ候  頓て刀根山の嶺にて懸け付け 心ばせの侍衆  帰し合ひ貼  相支へ 塞ぎ戦ひ候へども 叶はず敦賀まで十一里 追討ちに頸数三千余あり 注文 手前にて見知の分 朝倉治部少輔 朝倉掃部助 三段崎六郎 朝倉権守 朝倉土佐守 河合安芸守 青木隼人佐 鳥居与七 窪田将監 詫美越後 山崎新左衛門 土佐掃部助 山崎七郎左衛門 山崎肥前守 山崎自林坊 ほそろ木治部少輔 伊藤九郎兵衛 中村五郎右衛門 中村三郎兵衛 中村新兵衛 金松又四郎これを討ち取る 長島大乗坊 和田九郎右衛門 和田清左衛門 引檀六郎二郎 小泉四郎右衛門 濃州龍興 印牧弥六左衛門 此の外 宗徒の侍数多討死す

 

 

ここで挙げられた武将の中で一般的に知られているのは河合安芸守(吉統)、山崎新左衛門(吉家)、濃州龍興(一色龍興)くらいだろうか。心ばせの侍衆 、帰し合ひ貼 、相支へ、塞ぎ戦ひ候」とあり朝倉家の中にも勇猛に戦った武将がいたことが分かる。

『朝倉始末記』にも同様に戦死者について記載がある。

 

 

山崎長門守吉家 同子息小次郎 同七郎左衛門吉延 同肥前守 其弟珠寶坊御 和田三郎左衛門 同清左衛門吉次 鰐淵将監吉廣 神九郎兵衛吉久 山内弥五左衛門 壁田図書吉澄 同七郎吉房 清水三郎左衛門 岩崎宗左衛門 増井五郎左衛門 木田宗兵衛宗俊 田房十郎左衛門秀勝 西島彦五郎吉尚 鳥居与七 十九歳 悉く敵と引組々々 刺違て尸は軍門に曝すと云えども 名は古今無双の功に残せり 去程に朝倉三郎景胤 同孫三郎景健 夜もほのほのと明は一合戦せんとて 駒引返せば 朝倉彦四郎 河合安芸守 詫美越後守 其外宗徒の人々続て返し合 敵二三百騎が中へ魚鱗に成て駆入 東西南北へ破て通り 四方八面を切て廻る程に 寄手の大軍も駆立られて 前田 佐々 福富なども宜々に成所に 木下藤吉郎 五百騎計にて折合 皆悉く討捕ける 其人々には 朝倉治部大輔 同彦四郎 同土佐守 同掃部助 河合安芸守 一色治部大輔 詫美越後守 窪田将監 細呂木治部少部 伊藤九郎兵衛 中村五郎右衛門 同三郎兵衛 同新兵衛 長崎大乗坊 引壇六郎三郎 小泉四郎左衛門 神波宮内助 溝江左馬允 青木隼人佐 並右兵衛大輔龍興 此仁は美濃之国主たりと云えども 信長に国を奪はれ 縁者の好たるにより 義景を頼みて 越前に御座しけるが 願う所の幸なるとて 今度の陣に進発し 討れ給うこそ無慚なれ」

 

 

差異はあるものの、両者とも朝倉氏の武将の名前を詳細に記している。『信長公記』の信憑性についてはここでは触れないが、『朝倉始末記』は後世の軍記物で人物の諱等、信頼は置けない。但、原本については天正期に朝倉氏の関係者の手によって成立したとも思われる。

戦国史研究でもっとも信憑性が高いものは当人が発給した文書であるが、幸いなことに当の織田信長上杉謙信に宛てた書状が現存している。日付は八月二十日で刀根坂の戦いの七日後である。

 

 

「数日を移さず越前陣所へ夜を籠め切り懸け追い崩し 朝倉掃部 同孫六 同治部上丞、 同土佐守 同権守 山崎長門守 詫美越後守 印牧右衛門尉 河合安芸守 青木隼人佐 鳥居与七 小泉藤左衛門尉 初めその外歴々の者ども三千余討ち捕り 木の目追い越し 府中に陣居え候処に 義景一乗明け 大野郡引き退き候条 彼の谷初め国中放火候事」

 

 

やはりここでも山崎吉家・河合吉統の名前が見え、特筆する人物だったのだろう。それと同様朝倉氏一門の名前も見える。ここでは余り知られていない朝倉氏一門、つまり同名衆について取り上げてみたい。

朝倉同名衆については足利義秋が永禄十一年(1568)、一乗谷の義景屋形に御成になった時の記録があるので下に記した。(『朝倉義景亭御成記』)

 

 

式部太輔(景鏡) 孫三郎(景健) 次郎左衛門尉(景尚) 修理進 孫六(景茂) 修理亮(景嘉) 右馬助(景富) 次郎右衛門尉(景種) 右京進 阿波賀小三郎(景堅) 向駿河守(景乙) 三反崎虎松 権守 掃部助 出雲守(景亮) 溝江大炊允(景家) 藤三(景嘉) 溝江三郎右衛門尉 左近允(景満)

 

 

ここでの順番がそのまま朝倉同名衆の席次であったと思われるが、敦賀郡司の景紀・景恒父子の名前がないのは、景鏡と筆頭の座を争い不参加であったからだと言われる。同名衆同士の不和が見え、これが後の朝倉氏滅亡に繋がるのが、非常に興味深い。他にも朝倉治部上丞(治部大輔・治部少輔)の名前がなかったり、系図上で義景の弟とされる播磨守義弘の名前がない。治部丞については別に述べるが、義景弟については朝倉氏の系図が、『朝倉始末記』を元に作成されたと思われ、治部大輔=義景弟と考えられていたようだ。しかし信長の書状によると治部大輔・治部少輔は誤りであり、正しくは治部上丞。恐らく治部丞景遐のことだと推測する。朝倉氏の系図はいくつかあるが、一乗谷朝倉氏遺跡博物館でも誤った系図を載せていて残念である。

 

 

朝倉掃部助景頼

 

信長の書状において討ち取った武将の筆頭に挙げられているのが掃部助である。この掃部助家と土佐守家は当主教景の弟、遠江守頼景を祖とし、長禄合戦(1458~1459年)では掃部助は守護斯波氏側に与し孝景(初代)に罰せられたが、後に一族が名跡を継いだと見られる。寺島城城主(池田谷の内、寺島村という所に有)ともあるが詳細は不明。古図を見ると一乗谷に朝倉掃部助の屋敷があったことが確認できる。

 

当代の掃部助は朝倉始末記では景氏とあり、系図では景郡の子、義景の従兄弟とされるがこれは疑わしい。(養子の可能性もあるが) 朝倉始末記は金ヶ崎城の援軍で兵八百を従え出陣し、刀根坂では義景に疋壇まで退くよう進言した後、自らは織田軍に切り込み討死したとある。

故松原信之先生の『越前朝倉氏の研究』によると諱は景頼で、永禄四年(1561)、義景が興行した犬追物で与七の名前が見え、永禄八年(1565)年十二月頃から掃部助を名乗ったとされる。『朝倉義景亭御成記』では十四番目に登場し、御手長を務めている。一乗谷朝倉氏遺跡博物館の石造物検索システムによると、一乗谷周辺に元亀四年(1573)三月の日付と願主景頼と推測できる石仏が5体以上散在しているが、その内の1体が一乗谷朝倉氏遺跡博物館に、永昌寺(東郷)に1体あるのを確認済み。

 

一乗谷朝倉氏遺跡博物館

 

 

永昌寺

 

 

三万谷の白山神社に2体あるようだが、発見できず。(場所が移されたか)

三万谷白山神社

 

 

 

私見だが一乗谷城に破壊された石仏(千手観音像か)があり、これも類似しているように見える。

一乗谷城

 

 

石仏の願主が確認でき、当時の武将の信仰が知れる貴重なものであるが、元亀四年三月、朝倉掃部助景頼は石仏(千手観音)に何かしらの救いを求めた。それは朝倉家の繁栄を願ったのか、滅びゆく我が身を憂いたのであろうか…

 

※景氏は景頼の子の可能性もあり、松原信之先生は著書にそのように書かれていた。