朝倉同名衆其の二 朝倉土佐守景種

 

『朝倉始末記』などの軍記物では景行とあるが、系図では頼景‐景種‐景頼‐景継‐景種とある。あるいは景行は景種の子とも思われるが、恐らく諱は後世のものだろう。掃部助の項でも触れたが、土佐守家と掃部助家は同族で遠江守頼景を祖とする。孝景・景頼・景種など、朝倉氏は子孫が先祖の諱を名乗ることが慣習であったことも確認できる。『朝倉義景亭御成記』では次郎右衛門尉 の名で八番目(五番目以降は同列か)に登場し、御部屋衆ノ相伴を務めた。『明智軍記』や『朝倉始末記』によると永禄五年(1562)、一向一揆討伐の総大将として加賀へ出陣した。永禄十一年(1568)年、織田信長朝倉義景に上洛を求めた際には信長の謀であると反対。元亀元年(1570)、金ヶ崎城の援軍には兵二千を従え出陣、永禄十三年(1570)の堅田の戦いにおいても大将として出陣するなど朝倉家の中核を担った。没年は前述の通り、元亀四年(1573)八月十三日に掃部助と共に刀根坂において討死。

 

土佐守家は北陸道の要地である北ノ庄を治めており、祖父の景頼(永忠宗長)は延徳三年(1491)三月、越後を目指していた細川政元らを館で饗応している。土佐守館の詳しい場所は不明だが、北庄城・福井城の前身とも考えられる。このことから同名衆の中でもかなりの兵を動員できたのではないかと思われる。景種の討死後、土佐守館は織田家に接収され、三人衆と号された明智日向守(光秀)・津田九郎次郎(元嘉)・木下助左衛門(祐久)が置かれた。明智光秀の名前が出てくるのは作為だろうか。天正二年(1574)に起こった一揆では富田長繁麾下の毛屋猪介が守ったが、一向一揆に討たれた。

 

福井県史』によると、勧雄宗学が北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山したとあるが、墓などについては不明。(現地に赴いたが何もなかった。写真も消失。)

 

『越前朝倉氏の研究』には坂井郡山荒届や細呂宜下方郷文の本役銭を興福寺大乗院へ納入する代官とある。