朝倉同名衆其の三 朝倉治部丞景遐

 

朝倉姓であるが『朝倉義景亭御成記』には名前が出てこない。日下部氏朝倉系図は刀根坂で討死した治部大輔を義景の弟の播磨守景弘としているが、これは『朝倉始末記』を元にして作成したと見られ、義景に弟は存在しない。治部丞の名前が最初に見えるのは『石徹白文書』で天文九年(1540)に朝倉家が郡上郡の東常慶を攻めた時、石徹白紀伊守胤弘道案内をさせるため派遣された人物が朝倉治部とある。他には『河口庄勘定帳』に名前が見られるが、同時に堀江治部丞との記載もあり、松原信之先生によると堀江氏の一族である可能性があるという。(『越前朝倉氏の研究)』

永禄十年(1567)に堀江景忠は能登へ亡命しているが関係性は不明。元亀元年(1570)六月には伊勢神宮に田地を寄進し、義景の国家安全・武運長久並びに、自分と子と家来のため二世安穏・武運長久の祈祷を依頼した。

元亀四年(1573)、刀根坂において討死した人物の官職は、『朝倉始末記』は治部大輔、『信長公記』は治部少輔であるが、『本願寺文書』信長の書状に治部上丞と記されているため、上記の治部丞景遐だと思われる。

 

景頼と同様、神仏に願ったがその想いは成就することがなかった悲運の武将。治部丞も主な合戦で戦い続けたと見え、姉川合戦図屏風にも名前が見える。