梅本坊公事

京極高延(高広)と高吉の家督相続争いは大永三(1523)年三月九日の大吉寺の梅本坊公事から起こったという。(『江北記』)

この公事についての詳細は不明だが、京極氏の家督について何かしらの動きがあったと推測される。しかし昨日述べたように高吉はすでに佐々木一族の大原氏を名乗っており、京極氏の家督は高延(高広)が継ぐことが決まっていたはずである。(仮に吉童子丸が高広なら24歳、高吉は20歳、高清は入道し64歳になっている。)

それとは別に大永元(1521)年に七月十四日に上坂家信が死去し治部丞信光が継いだことも事の発端となった。上坂家信は元は政経・材宗派であったが、後に高清派に鞍替えし騒乱を治めた功労者である。家信は文亀元(1501)年六月に材宗派の浅井・三田村・堀・渡部らと合戦をしているが、中でも浅井・三田村・堀は根本当方被官と記された一族であることも注目したい。(この浅井氏は亮政の実父の蔵人直種で討死したという説が有力。)

『江北記』は和睦成立後の25年間は無事であったというが、これは計算が合わない。恐らく材宗は殺害されたと思われることから、『江北記』の作者の下坂氏は終始高清派であったことから意図的に書かなかった可能性が高い。

浅見東陽像賛によると高延(高広)・高吉兄弟が数年に渡って不和であったことは間違いないが、国衆同士の争いが複雑に絡んでいるのは間違いない。『江北記』には浅井・三田村・堀・今井といった牢人衆が浅見(貞則)と図り上坂信光に対して兵を挙げたとあるが、浅井・三田村・堀は先の合戦で材宗方で戦い、ここで牢人衆としていることは偶然ではないだろう。この浅井氏は亮政であると思われる。上坂信光は小野江城(尾上城)に立て籠った牢人衆を攻めたが、敗れて今浜城を破却され逃亡している。苅安尾城上平寺)にいた京極高清も上坂信光に同心していたため、六郎(高延・高広)を残し大原五郎(高吉)と共に尾張へ落ち延びている。国衆はその後上手を焼き尽くしていることから、一連の騒動は国衆の謀反とも受け取れる。その後、高延(高広)は神照寺へ入り、浅見(貞則)が御供し小野江城(尾上城)に移ったとある。

 

『江北記』の記述は残念ながらここまでである。(その後に内保合戦のことが僅かに書かれているので編集段階で抜け落ちたか。)

その他の記録は『長享年後内兵乱記』に、北郡上坂治部信光没落閏 三月京極宗意出奔とあるようだ。