2022-01-01から1年間の記事一覧
少し長いですが、まずは下の文章を読んでいただきたい。 「説教を聴きに来た人々の中には京極(高吉)殿と称される近江国の本来の領主がいた。彼は領地を失ったが、信長から寵愛を受けることになった非常に偉大な殿であり、安土にあるもっとも立派な邸の一つ…
2022年は4回富山へ行きました。私が住んでいる滋賀からは近い距離ではないのですが、その目的は越中神保氏について調べるためです。なぜ神保氏にそこまで?と思われる方もいらっしゃるでしょう。戦国武将としてはどちらかと言うとマイナーな神保氏。ゲーム…
朝倉姓であるが『朝倉義景亭御成記』には名前が出てこない。日下部氏朝倉系図は刀根坂で討死した治部大輔を義景の弟の播磨守景弘としているが、これは『朝倉始末記』を元にして作成したと見られ、義景に弟は存在しない。治部丞の名前が最初に見えるのは『石…
『朝倉始末記』などの軍記物では景行とあるが、系図では頼景‐景種‐景頼‐景継‐景種とある。あるいは景行は景種の子とも思われるが、恐らく諱は後世のものだろう。掃部助の項でも触れたが、土佐守家と掃部助家は同族で遠江守頼景を祖とする。孝景・景頼・景種…
天正元年(1573)八月十三日夜。退却中の朝倉軍は刀根坂で織田軍から追撃を受け、壊滅的な状況に陥った。この戦いでは多くの武将が討ち取られ、朝倉家の滅亡に繋がった運命の一戦である。太田牛一はこの時討ち取った者の名前を『信長公記』に書き記している…
京極高延(高広)と高吉の家督相続争いは大永三(1523)年三月九日の大吉寺の梅本坊公事から起こったという。(『江北記』) この公事についての詳細は不明だが、京極氏の家督について何かしらの動きがあったと推測される。しかし昨日述べたように高吉はすで…
室町時代、幕府の四識と呼ばれる役職に付けたのは赤松・山名・一色・そして京極氏である。しかし度重なる内乱で幕府の権威が弱まると、各地で有力な大名に取って代わられ、次第に没落していくこととなる。その中で唯一大名として近世まで命脈を保てたのは京…
最近はYou Tubeなどのネット界隈でも中世の歴史が取り上げられることが多く、歴史解説動画などを始め、楽しく拝聴しています。さらに先日、太閤立志伝5のリメイクや信長の野望の新作が発売されたりと、ここに来て一気に自分の中でも歴史熱が高まっているの…