しかしAIはすごいです。私は学者でも何でもない、ただの歴史好きなのですが、AIを歴史考察に使用してみて、言語化することでたくさんの発見がありました。(私にはこんな文章は到底書けません。)
引用元はネットからなので、なるべく文書名を追記していますが、素人なので考察も不十分、著作権を侵害している可能性もありますので、あくまで物語としてご覧ください。
とは言うものの、謎の多い越中の戦国史。少しでも解明に繋がればと思い、記事をアップした次第です。
本稿では、神保氏のアイデンティティたる本姓「惟宗(これむね)」を象徴する仮名(「宗」の字)の継承、および椎名氏の対抗的官途受領(「右衛門」マウンティング)という視座などを用い、神保氏が親子三代(約80年間)にわたり繰り広げた越中国の東西分裂抗争の構造的復元を試みる。
慶宗は一揆鎮圧のために越中へ下向した越後守護代・長尾能景(上杉謙信の祖父)と連携の約を交わしながらも、合戦直前に一向一揆側へと内通。これにより退路を断たれた長尾能景は「芹谷野の戦い」で討ち死にを遂げた。この慶宗の「裏切り」は、能景の子・長尾為景に対して強烈な宿怨(父の仇討ち)を植え付けることとなった。
対する長尾為景は能登守護・畠山氏らと「守護連合軍」を結成し、永正16〜17年(1519〜1520年)にかけて苛烈な報復外征(越中永正の乱)を敢行。結果、椎名慶胤は境城で玉砕し、神保慶宗も新庄城から逃亡。自害へと追い込まれた。
一方、神保家中にあっても、慶宗の独立路線に反発して守護連合軍側に味方した慶宗の弟(あるいは近い一族)である神保慶明が、長尾側の傀儡当主として擁立される。ここに、「反長尾(一揆)同盟」と「親長尾(守護)派」という、のちの三代にわたる東西分裂の基本構造が決定づけられたのである。
長職と康胤は、互いの立ち位置を180度入れ替える形で再び東西対立を継続することになるが、この「長職の急速な親上杉化」は、神保家内に深刻な路線対立(父子矛盾)を胚胎することとなった。
長住(宗三郎長国)は反上杉・独立派の旗頭として一向一揆と結託し、父・長職と衝突して一度は能登(畠山氏のもと)へ亡命。元亀元年(1570年)、能登畠山氏の親織田派(長続連ら)の名代と共に「神保名代」として上洛し、足利義昭や織田信長の庇護を獲得、この過程で信長の妹(神保・稲葉夫人)を娶った(妹婿となった)と推測される。信長が他国の亡命領主にすぎない長住に多大な軍事支援を継続した背景には、この「義弟」という立場が不可欠であった。
長住は親上杉派を掃討するため一向一揆と結び、上杉方の重要拠点であった日宮城や富山城を占拠、「長城」から「長国」と名を変え在地への安堵状(実効支配の証明)を発給する。(『専福寺文書』) この時、隠居の父・長職(宗昌)は、長住の軍勢(一向一揆・水越氏ら)が立て籠もる富崎城(または付近の蓮華寺)に身を寄せていたが、元亀3年(1572年)9月、激怒した上杉謙信による富崎城への猛烈な総攻撃(焼き討ち)に巻き込まれ、自害。これが地元に今も残る「腹切り石」伝承の実態であると推測される。
増山城を追われた長住は京都へ再亡命し、天正5年(1578年)神保氏の旧縁である清水寺成就院に、武運長久の祈願をしている。長住の執念が実ったのか、天正6年(1578年)、上杉謙信が急死。長住は信長から呼び出され、佐々長穐・美濃衆の斎藤利治(神保・美濃斎藤氏は婚姻関係にあった可能性がある)を中心とする大軍を付けられ、越中への大凱旋(返り咲き)を果たす。この頃「長国」から「長住」に名を改めた。
弥次郎は、本家(長住)に対する対抗意識から、総領の証たる「宗」の字を名乗り「宗次郎(宗四郎)」と改名したと思われる。彼にとって長住は「父の仇(長職)の息子」であった。
天正10年(1582年)3月、上杉景勝の臣下として親上杉派の宿老(小島職鎮ら)と結んだ宗次郎昌国は、富山城の長住を急襲(富山城政変)。長住を幽閉・失脚させ、三代・60年間にわたる一族の宿怨に決着をつけた。失脚した長住は三度越中を追われ、伊勢神宮に越中への帰国を祈願をしたことを最後に歴史の闇に消えた。長住の血筋は絶えたものと思われ、妻(信長の妹)は、のちに美濃の地縁(斎藤・織田ルート)を通じて稲葉貞通へと再嫁した。
氏張の出自については、能登守護・畠山義隆の子とする後世の混同系図(『寛政重修諸家譜』など)があるが、実際は射水郡・放生津や守山を代々統治してきた庶流の神保氏重(または氏純)の子である。
氏張は能登畠山氏の家臣との深い外交ルートを背景に、後に上杉景勝に臣従(天正5年の上杉家将士名簿に登載)、謙信没後は織田方に転じ、越中に入国した佐々成政の筆頭家老(成政の娘を嫡子・氏則の妻に迎える)として権勢を振るった。後世、織田・豊臣政権下で越中に最後まで残り徳川家旗本となった氏張の知名度が高かったため、流浪の末消えた「長住の信長妹婿という記録」が、系図上で氏張の経歴へと誤記・混同されたのが、通説の歪みの正体であったと考えられる。
とりわけ、上杉景勝を後ろ盾として織田派の長住を駆逐した親上杉派の神保昌国(宗次郎)が、激動ののちに「神保右衛門」として前田家に仕官し、近世加賀藩士神保家の祖となったプロセス、およびその後世の系図において彼が「神保氏張の弟」という不自然な位置づけに変更された背景について、学術的・政治的観点から論考を締めくくる。
昌国(右衛門)は、天正12年(1584年)の時点で前田利家の宿老・前田安勝と独自の交渉パイプを持っており、豊臣平和令(富山の役)による越中割譲ののち、新領主となった前田氏にその土地勘と旧椎名領(松倉城周辺)の支配実績を買われて「300石・御持筒足軽五十人頭」として召し抱えられた。昌国は、父・民部大夫が長職に討たれたのち、一族の正統たる官途「右衛門」を襲名し、加賀藩士神保家の格式(のちに550石に加増)を築いたのである。
これまでの「三代にわたる宿怨の対立」を鑑みれば、長住を幽閉した昌国が、別系統の独立国衆である氏張の弟になることは論理的に整合しない。この「系譜操作」が起きた背景には、江戸時代という「幕藩体制」特有の深刻な政治的・社会的要請があった。
豊臣・徳川という中央政権の支配が確立した江戸時代において、「織田信長の義弟を幽閉した上杉方の残党」という由緒は、藩内での出世はおろか、一族の存続すら危うくする致命的な政治的リスク(不忠の経歴)であった。そのため、江戸中期以降に由緒帳を幕府や藩に提出するにあたり、昌国としての生々しい反逆の記憶を隠蔽する必要に迫られたのである。
加賀藩士となった神保右衛門の末裔たちにとって、同じ「越中神保氏」の中で最も中央(幕府)受けが良く、かつ織田・徳川政権下で「正当な武功」を認められていた氏張の家系は、自らの家格を保証してもらうための絶好の「親戚の看板」であった。
事実、後世の誤伝によって氏張自身が「信長の妹婿」という華々しい由緒(本来は長住の経歴)をカブセられていたため、氏張の権威は絶大であった。
昌国の抗争の歴史は「右衛門」という官途に姿を変え、かつてのライバル(氏張)の血統へ滑り込むことで、前田百万石の中での永続的な安泰を勝ち取った。これは、戦国期の国衆が見せた、極めて現実的で泥臭い生存戦略であったと言える。
- 「慶明(父)─民部大夫(子)─弥次郎昌国(孫)」という一貫した親長尾・上杉派の血統と、「慶宗(父)─長職(子)─長住(孫)」という独立・反上杉派(のちに織田派)の血統が、全く同じ歩調で三代・約80年間にわたり総領の座と正統(「宗・総」の仮名)を巡って相克し続けた。
- 椎名康胤の「右衛門大夫」は、宿敵・長職(宗右衛門尉)への強い対抗意識に根ざした官途マウンティングであった。
- 神保家内の真の父子対立の主役は神保長住(総三郎長国)であり、彼こそが織田信長の妹婿として、一向一揆とも手を結び、上杉謙信と対等に渡り合った悲劇の当主であった。
- 神保氏張は養子ではなく、独自の文書発給権を行使して守山城に割拠した、極めてリアリティのある独立国衆であった。












