京極高吉について

少し長いですが、まずは下の文章を読んでいただきたい。

 

「説教を聴きに来た人々の中には京極(高吉)殿と称される近江国の本来の領主がいた。彼は領地を失ったが、信長から寵愛を受けることになった非常に偉大な殿であり、安土にあるもっとも立派な邸の一つに住んでいた。彼はその妻とともに(キリシタン宗門の)説教を聴くことにした。彼女は禅宗の信徒で、その教えに通暁していたので、ロレンソ修道士と四十日間議論し続けた。彼女の溌剌とした才能、またやすやすと答弁したり質疑する叡知には、一同が目を見はった。彼女はついに、霊魂の不滅、ならびに来世において受ける栄光と懲罰を信じることができるようになったが、それらは禅宗が否定していることであった。かくて両名はともに、(キリシタンの)教理の説教を十分理解した上で洗礼を受けた。彼らはきわめて高名な人物であったから、キリシタンにとっては大きい慰めとなった。彼らには一人の幼い娘がいたが、彼女もキリシタンとなった。

その後ほどなくしてデウスの御旨により、京極殿は世を去った。その死はあまりにも突然訪れたので、異教徒であった息子と家臣たちは異なった考えを抱いた。というのは、彼らはその死は神と仏の罰であると思って恐れをなした。平素、異教徒たちは、我らを誹謗するためになんらかの機会を利用しようと欲していたので、そのように言うのである。だが彼の妻は、忍耐強く、毅然としてこの出来事をデウスの御業として受け取り、幼いキリシタンの娘と二人だけが家に留まって、徳操の栄誉、亀鑑というのにふさわしい生活を送っている。」

 

(『完訳フロイス日本史3』 26-27項)

 

「説教を聴いた者の中に、かつて近江国の国主であった貴人がいたからである。彼は領国を失ったとはいえ、信長の庇護の下にあって今や偉大な殿であり、当城下にあるもっとも立派な邸宅の一つを所有していた。京極(高吉)殿と称するこの貴人は夫人と共に説教をことを決心したが、デウスのことをたいそう好むので四十日間続けて説教に耳を傾けてこれをよく悟り、四十日の終りには二人とも洗礼を受けた。この貴人たちには十一、二歳の幼い子息が一人あって、この頃、他所で信長に仕えていた。父親は彼が帰った時に家族全員と共に洗礼を受けさせることに決めていたが、それより数日後、我らの主が父親を御許に召し給うたので、その望みは叶えられなかった。彼の死によってその子息ならびに家人は皆、依然として異教徒のままであり、父の死は神と仏の罰によるものと考えて非常に畏れた。」

 

(『十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期6巻、同朋舎、1991年、54-55頁。 1582215日付、長崎発信、ガスパル・コエリュ師のイエズス会総長宛、(1581年度)日本年報』)

 

 

 

上に挙げたのはキリシタンによって京極氏について書かれた箇所を抜粋したものだが、内容が違っているのはやはり訳した原本が違うのだろうか?(翻訳者は同じ)

後者はWikipediaより引いたもので、現時点では確認は取れていない。これらの記述から京極高吉について解き明かしていきたい。

 

まず1581年時点での京極家の人々の年齢を挙げてみる。高吉78歳、マリア38歳くらい、高次19歳、高知10歳、龍子?歳、松雲院?歳、マグダレナ?歳となる。十一、二歳の幼い子息とあるのは年齢的に見て、次男の高知のことだと思われる。長男の高次の名前が見えないのはすでに織田信長の直臣として働いていたと見るべきか。同様に龍子・松雲院もすでに嫁いでいたと思われ、幼い娘とはマグダレナのことであろう。マリアの実家・浅井氏の菩提寺の徳勝寺は曹洞宗であり、禅宗の宗徒という記述はうなづける。高吉はかつての近江の国主で信長が庇護しており、安土城下に立派な邸宅を与えられていた。

落ちぶれたとはいえ、京極氏の名声は衰えていなかったことが分かる。京極氏が江戸時代以降も存続できたのは、こうした過去の栄光の賜物であろう。(それに加えかなり運も良かった)

 

さて本題移るが、高吉の年齢の78歳(1504~1581)は、家族の年齢と比べると不自然に思えないだろうか。しかし清瀧寺徳源院にある高吉の宝筐院塔には天正九年正月二十五日没道安とあり、(2022年現在拝観休止のため、現地で確認できていません)京極氏の系図でも同様の記述があるという。確かな史料においては当時の文書に高慶という名前があり、『江北記』にも大永三年(1523)三月九日、梅本坊公事において大原五郎は兄・京極六郎と家督を争ったことが書かれているので、1504年生まれは妥当であると言えよう。しかし急死したとはいえ、78歳で死んだことについて神や仏の罰と言うのは少々無理があるのではないか。

(別の外的要因である可能性もあるが、その事は触れられておらず、突然死であった)

人生50年と言われる戦国時代においては大往生だと思うが如何であろうか?そこで生まれる疑問は大原五郎=高慶≠高吉ではないかということである。

 

改めて系図を見てみたい。高清‐高峯‐高秀‐高吉‐高次とあり、高清と高吉の間には2代別の人物が入っている。

高清は政経・材宗父子と京極氏の家督を争い、自らの後継には長男・六郎高広ではなく次男・五郎高慶を推した人物として知られ、持清(1470年没)か、勝秀(1468年没)の子として生まれ、生年は1460年か1464年とされているが、1563年生まれの孫の高次とは100年くらい歳が離れていて、やはり不自然である。

系図を作成する際にも、そういった疑念が生まれたのではないかと思われる。高清は1538年に没しており、こちらも75歳くらいとかなり高齢であるが、没年については『東浅井郡志』で確認することができる。

系図によると、高清の後の高峯には高秀以外に長松軒・香集軒(刑部少輔)・青雲寺の3子があり、こちらも検証は必要だが、恐らく高峯=六郎高広(高延・高明)、

長松軒=大膳大夫晴広(『対馬宗家文書』)、

香集軒=高成(『永禄六年諸役人附』には治部大輔とあるが治部少輔の間違いか)、

青雲寺=玉英(『東浅井郡志』青雲寺は 若狭にある栖雲寺のことか)である。

高峯の後に高秀の名前が続いているのは、これは親子関係ではなく、家督相続順を表したものとも受け取れる。

 

「将軍義晴に従いて戦功あり。義晴薨去の後上平寺に帰りて蟄居し、尋で卒す。卒去の年は家記に弘治二年(1556)とし、四讃府誌には天文十九年(1550)十一月四日とす、何れが是なるを知らず。台嶺院殿道也。武蔵守。高吉の父。妻は六角氏綱の娘。」(こちらの出展元は未確認です。)

この人物こそが京極高慶のように思えてならない。

 

次に高広の子として挙げた晴広という人物だが、室町幕府滅亡後の足利義昭に付き従い、天正年間には朝鮮と交渉していた記録がある。名前の晴の字は当然、足利義晴偏諱であると思われるが、仮に高広(1500年頃の生まれ)が後に改名したとするとかなりの高齢になってしまう。義晴は天文十九年(1550)五月四日に没しているが、『東浅井郡志』によると同年(と推測される)六月二十六日に下坂左馬助に宛てた高広の書状があるので、高広=晴広は否定できるだろう。『厳助往年記』・『天文日記』では天文年間後半になっても(京極・佐々木)六郎の名前が見えるが、高広は50歳近くになっても六郎と呼ばれていたのだろうか?いや、恐らくこれは子の晴広のことではないかと思う

 

文三年(1534)8月に浅井亮政は御屋形様と御曹司様を小谷城下で饗応しているが、失脚した75歳の高清が未だに御屋形様であったと考えづらく、高広・晴広と考えれば納得がいく。実際、御屋形様の横に京極中務少輔高峯と注釈があるが、これは後世のものだろう。

 

さらに天文九年(1540)に「元光之御娘人十七歳 六角殿頼定(〇定頼)猶子トシテ 七月十七日ニ南都ヘ御出アリ 其の後北郡京極殿ノ御上ニ成被申了 南北和睦也」とあり、武田元光の娘で六角定頼の養女が京極氏に嫁いでいるが、これも晴広と見るべきだろう。(『羽賀寺年中行事』)

 

江戸時代に書かれた『江濃記』は誤りの多い軍記物だが、天文十三年(1544)に六角・朝倉・関・長野・北畠・土岐といった諸将が京極佐々木氏を攻め、浅井下野守入道休外(×亮政 〇久政)が寝返り、京極六郎は自害、京極家は滅亡し弟の高成は若狭に逃れ、武田氏の扶助を受け後に名字を継ぎ近江守を名乗って、萬松院(義晴)の近習として仕えたことが書かれている。

東浅井郡志』によると天文十三年に京極家が滅亡した事実はなく、高広は天文二十二年(1553)までは活動が見える。しかし私見を述べるとこの記述には一定の事実が書かれているように思える。例えば京極氏と若狭武田氏の婚姻関係、永禄六年(1563)時点で高成の名前が足利義輝の御供衆に見え、京極弟とあること。(これは高広の弟・高慶とも取れるが、前提として高広が生きていないと弟との記述は成立しないのではないか)

高広は天文二十二年の地頭山陥落を境に名前が見えなくなることから陣中で没したのか、晴広・高成らが縁者の若狭武田家を頼ったとすれば理解できる。(三男の玉英は武田義統の猶子という。)

東浅井郡志』では言及はしていないが、清瀧寺徳源院の過去帳には「建徳寺殿宗陽居士 天文廿二年七月廿九日」とあるようで、『佐々木京極氏と近江清瀧寺』でも、その根拠には触れられていないものの、高広は天文二十二年死去としている。

それ以降の京極氏は高佳・道安の名が見えるようになることから、あくまで素人の考えだが、京極氏の家督は高広系から高慶系に移ったのではないかと結論付けたい。

 

東浅井郡志』によると『島記録』所有の文書に浅井新九郎が高弥という人物に沈香を送ったことが書かれていて、新九郎を久政、高弥を高広の子に比定している。

その他に浅井左兵衛久政の書状に上様・若上様の記述があるが、久政が左兵衛を名乗るのは1550年春以降であることから、最初の新九郎は久政ではなく長政のことで、1553年以降に六角氏の支援を受け京極氏の家督を継いだ高慶(系図では高秀)・高弥(後に高佳・道安か。系図では高朝・高吉)を上様、若上様と呼んだのではないか。

 

『天文日記』は残念ながら天文二十二年七月頃の記録が抜け落ちてしまっているが、浅井久政六角義賢に降伏したようで、十二月二十二日条「又左京大夫へ 就北郡本意事 以一章五種十荷遣」と見え、本願寺証如は六角義賢に江北を治めたことに対する祝いの書状を送っている。

久政の娘のマリアが高弥(高佳)に嫁いだのもこの頃だと思われる。浅井長政六角義賢から偏諱を受け、賢政と名乗ったことは有名な話であるが、久政を隠居させた長政は六角氏と決別し、永禄三年(1560)八月に野良田の戦いで破っている。

永禄二年九月と翌三年六月に京極高佳は文書を発給しているが、野良田の戦い以降は道安と名を改め清瀧寺に蟄居したと思われる。後に織田信長が近江に進攻した際に、息子の高次を出仕させたと伝わり、浅井氏滅亡後の近江支配のために一役買ったのだろうか。

 

 

 

こじつけで申し訳ないですが、高慶と高佳。両方とも「たかよし」と読めますが、高慶は「たかのり」と読む可能性もある。(例:畠山義慶)

高弥は「たかみつ」と読むそうです。

 

内容についてはまだまだ精査する必要がありますが、一旦ここで筆を置きます。長々とお読みいただきありがとうございます。

 

越中遠征と神保氏

2022年は4回富山へ行きました。私が住んでいる滋賀からは近い距離ではないのですが、その目的は越中神保氏について調べるためです。なぜ神保氏にそこまで?と思われる方もいらっしゃるでしょう。戦国武将としてはどちらかと言うとマイナーな神保氏。ゲームでも当主・家臣共にパッとしない能力で、常に上杉謙信の影に怯えているという有様。事実私は今年発売になった「信長の野望・新生」をプレイしましたが、何度も何度も積んで攻略を諦めてしまいました。(私が下手なのもありますが)

 

神保さんという名字は現代においてそんなにめずらしい名字ではありません。ですが、その方々が越中神保氏とどう繋がってくるのかは、調べてみましたがよく分かりませんでした。東京には古書店街として有名な神保町があり、江戸時代に神保氏がいたことは間違いありません。ですが越中神保氏の痕跡は途絶えてしまっているのです。そこに魅力を感じるのが戦国マニアたる所以でしょうか。

 

まずここで越中神保氏というのは越中守護代家の長誠-慶宗-長職-長住のことを指します。他にも氏張や昌国という人物も越中で活動していたのですが、関係性が不明と言わざるを得ません。神保氏のことは今年に入って調べ出したのですが、知識はまだまだ不十分で間違っている箇所もあるでしょう。ですがその前提として、調べるための資料があまりにも少なすぎるということ。神保氏の題名の書籍はありません。

 

越中神保氏の略歴

越中守護代として応仁の乱でも活躍した長誠死後、跡を継いだのが慶宗でした。慶宗は主の畠山家に背き、上杉謙信の父・長尾為景によって攻め滅ぼされてしまいます。一時没落した神保氏でしたが、慶宗の子と推測される長職は婦負郡を本拠地とし、神通川を越え富山城を築き、新川郡の椎名康胤と争います。椎名家に対しては優勢であった長職ですが、椎名氏のバックには長尾景虎上杉謙信)がいました。謙信に何度も攻められては和睦・降伏を繰り返した結果、神保氏は再び没落してしまいます。

永禄十二年(1569)頃には「神保父子間及鋒楯」と言われるように、長職は嫡男長住と不仲となり長住を追放、元亀二年(1571)頃には長職は隠居し宗昌と名乗り、次男の長城が継いだものと見られています。但、これ以降両名とも名前は史料上確認できません。

元亀三年(1572)九月に富崎城が落城、天正四年(1576)に増山城が落城、その後の長職・長城の行方は一切不明。(長職の没年は1572年頃という説がある)

一方越中を追われた長住の足取りも詳しくは分かりませんが、能登の畠山氏の元に身を寄せていたという説があります。しかし能登も平和ではなく、天正五年(1577)に謙信によって七尾城は落城しました。長住は織田信長を頼ったことが『信長公記』で確認できます。織田家と神保家は婚姻関係であったようです。神保越中と呼ばれた長住は謙信の死後、佐々長穐・斎藤利治らの支援を受け、飛騨から越中へ侵攻します。見事富山城主に返り咲いた長住でしたが、天正十年(1582)に配下の小島職鎮・唐人親広らによって幽閉されてしまいます。織田軍に助け出された長住でしたが、信長が許すはずもなく、再び流浪の身となります。翌天正十一年(1583)年、伊勢神宮越中帰還の祈願をしているのを最後に、以降の足取りは不明。

 

 

私の越中遠征

今年1回目の越中遠征は飛騨神岡町へ行くのに、富山駅から高山本線を経由して入りましたので、神保氏について得るものはなかったのですが、北陸新幹線の車窓から増山城の方を眺めていると、何か沸々と湧き上がるものを感じました。

そして2回目の越中遠征は無謀とも言える原付2種バイクで。越中守山城・放生津城を経てついに富崎城(滝山城)へ。

 

城の麓には神保氏の菩提寺とされる本覚寺があります。

 

その後、増山城に行きましたが、不思議なことに神保氏の名跡があるのは支城とされるこの富崎城の方でした。更にこの付近に神保長職が腹を切った際に腰かけた石があると知ったのですが、この時は詳しい情報がなく、断念をせざるを得ませんでした。

 

そして3回目、富山市郷土博物館(富山城)の「とやま戦国伝承」で神保腹切りの石についての展示があることを知り、いてもたってもいられずに、電車でGO。博物館の方に詳しい場所を聞けたのでした。

 

ここまで引っ張りましたがついに先日、実に4回目の越中遠征で念願叶って、神保腹切りの石を発見しました。更に何と供養塔まであり、一人で興奮してしまいました笑

 

案内板によると腹切りの石は沼田の隅とあるが・・・

ひょっとしてこれだろうか???

 

で問題なのがこの供養塔。

地元の見解では神保長住の墓とされている。ほとんど見えないが天正十年とあるようです。先程述べましたように、富崎城が落城したのは元亀三年。長住は天正十一年も生存している。となると後世の物か… 現地で30分くらい粘ってみましたが、遂に解読できず諦めて帰りました。

 

そして今日になって何となく写真を見返していたのですが、ひょっとしてこれは「大樹宗茂大禅定門」とあるのではないかと閃きました。そう、つまり神保慶宗です!

とすると天正十年ではなく永正十七年なのか。月日がないのはなぜか。後に刻まれたのではないか。素人ではこれが限界ですので、専門家に委ねたいと思います。参考までに色を付けてみました。どうでしょうか?

 

終わりに

この供養塔は元々ここにあったものなのだろうか?上杉謙信は書状で富崎城落城について水越某が降伏したことのみ記しているが、私は家臣に裏切られた神保長城が父祖の墓の前で腹を切ったのではないかと想像しています。

神保氏考察についてはまだまだネタがありますが今回はここまで。(書き切れていない内容はまた加筆するかも)

 

追記:

Twitterで兵衛大夫さんから教えていただきました。

 

sitereports.nabunken.go.jp/ja/46334

 

やはり「大樹宗茂大禅定門」のようで、後世に建立された神保長住の供養塔とのこと。しかし明らかに法名・銘文とも間違いで、大乗山蓮華寺『過去留帳』に

 

天正元年癸酉八月廿日 松雲院殿前左金吾大球宗光大居士 神保越中守殿父

天正六年五月十八日 報恩寺殿柏同宗慶大姉 神保越中守殿母

天正六年三月六日寅ノ天 芳春院殿巻顔宗留大禅定尼 神保越中守殿室

天正辰年二月廿一日 大樹宗茂大禅定門 神保越中守殿

 

とあるようだが、これも信憑性が低い。そもそも天正元年癸酉八月廿日 松雲院殿前左金吾大球宗光大居士とは朝倉義景のことである。なぜ混同されたのかは謎。

せっかく長職の没年が分かったかと思ったのですが、早計でした。やはり長職は元亀三年(1572)五月以前に死去していて、一向一揆の支援を受けた長国(長住?)が増山城に入り、富崎城に逃れた長城が一向一揆に攻められ自害したのでしょうか?

 

 

朝倉同名衆其の三 朝倉治部丞景遐

 

朝倉姓であるが『朝倉義景亭御成記』には名前が出てこない。日下部氏朝倉系図は刀根坂で討死した治部大輔を義景の弟の播磨守景弘としているが、これは『朝倉始末記』を元にして作成したと見られ、義景に弟は存在しない。治部丞の名前が最初に見えるのは『石徹白文書』で天文九年(1540)に朝倉家が郡上郡の東常慶を攻めた時、石徹白紀伊守胤弘道案内をさせるため派遣された人物が朝倉治部とある。他には『河口庄勘定帳』に名前が見られるが、同時に堀江治部丞との記載もあり、松原信之先生によると堀江氏の一族である可能性があるという。(『越前朝倉氏の研究)』

永禄十年(1567)に堀江景忠は能登へ亡命しているが関係性は不明。元亀元年(1570)六月には伊勢神宮に田地を寄進し、義景の国家安全・武運長久並びに、自分と子と家来のため二世安穏・武運長久の祈祷を依頼した。

元亀四年(1573)、刀根坂において討死した人物の官職は、『朝倉始末記』は治部大輔、『信長公記』は治部少輔であるが、『本願寺文書』信長の書状に治部上丞と記されているため、上記の治部丞景遐だと思われる。

 

景頼と同様、神仏に願ったがその想いは成就することがなかった悲運の武将。治部丞も主な合戦で戦い続けたと見え、姉川合戦図屏風にも名前が見える。

 

朝倉同名衆其の二 朝倉土佐守景種

 

『朝倉始末記』などの軍記物では景行とあるが、系図では頼景‐景種‐景頼‐景継‐景種とある。あるいは景行は景種の子とも思われるが、恐らく諱は後世のものだろう。掃部助の項でも触れたが、土佐守家と掃部助家は同族で遠江守頼景を祖とする。孝景・景頼・景種など、朝倉氏は子孫が先祖の諱を名乗ることが慣習であったことも確認できる。『朝倉義景亭御成記』では次郎右衛門尉 の名で八番目(五番目以降は同列か)に登場し、御部屋衆ノ相伴を務めた。『明智軍記』や『朝倉始末記』によると永禄五年(1562)、一向一揆討伐の総大将として加賀へ出陣した。永禄十一年(1568)年、織田信長朝倉義景に上洛を求めた際には信長の謀であると反対。元亀元年(1570)、金ヶ崎城の援軍には兵二千を従え出陣、永禄十三年(1570)の堅田の戦いにおいても大将として出陣するなど朝倉家の中核を担った。没年は前述の通り、元亀四年(1573)八月十三日に掃部助と共に刀根坂において討死。

 

土佐守家は北陸道の要地である北ノ庄を治めており、祖父の景頼(永忠宗長)は延徳三年(1491)三月、越後を目指していた細川政元らを館で饗応している。土佐守館の詳しい場所は不明だが、北庄城・福井城の前身とも考えられる。このことから同名衆の中でもかなりの兵を動員できたのではないかと思われる。景種の討死後、土佐守館は織田家に接収され、三人衆と号された明智日向守(光秀)・津田九郎次郎(元嘉)・木下助左衛門(祐久)が置かれた。明智光秀の名前が出てくるのは作為だろうか。天正二年(1574)に起こった一揆では富田長繁麾下の毛屋猪介が守ったが、一向一揆に討たれた。

 

福井県史』によると、勧雄宗学が北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山したとあるが、墓などについては不明。(現地に赴いたが何もなかった。写真も消失。)

 

『越前朝倉氏の研究』には坂井郡山荒届や細呂宜下方郷文の本役銭を興福寺大乗院へ納入する代官とある。

 

朝倉同名衆其の一 朝倉掃部助景頼

 

天正元年(1573)八月十三日夜。退却中の朝倉軍は刀根坂で織田軍から追撃を受け、壊滅的な状況に陥った。この戦いでは多くの武将が討ち取られ、朝倉家の滅亡に繋がった運命の一戦である。太田牛一はこの時討ち取った者の名前を『信長公記』に書き記している。

 

 

「中野内ロヘは雑兵を退げ  朝倉左大夫(義景)名ある程の者どもを召し列れ  敦賀をさしてのがれ候  頓て刀根山の嶺にて懸け付け 心ばせの侍衆  帰し合ひ貼  相支へ 塞ぎ戦ひ候へども 叶はず敦賀まで十一里 追討ちに頸数三千余あり 注文 手前にて見知の分 朝倉治部少輔 朝倉掃部助 三段崎六郎 朝倉権守 朝倉土佐守 河合安芸守 青木隼人佐 鳥居与七 窪田将監 詫美越後 山崎新左衛門 土佐掃部助 山崎七郎左衛門 山崎肥前守 山崎自林坊 ほそろ木治部少輔 伊藤九郎兵衛 中村五郎右衛門 中村三郎兵衛 中村新兵衛 金松又四郎これを討ち取る 長島大乗坊 和田九郎右衛門 和田清左衛門 引檀六郎二郎 小泉四郎右衛門 濃州龍興 印牧弥六左衛門 此の外 宗徒の侍数多討死す

 

 

ここで挙げられた武将の中で一般的に知られているのは河合安芸守(吉統)、山崎新左衛門(吉家)、濃州龍興(一色龍興)くらいだろうか。心ばせの侍衆 、帰し合ひ貼 、相支へ、塞ぎ戦ひ候」とあり朝倉家の中にも勇猛に戦った武将がいたことが分かる。

『朝倉始末記』にも同様に戦死者について記載がある。

 

 

山崎長門守吉家 同子息小次郎 同七郎左衛門吉延 同肥前守 其弟珠寶坊御 和田三郎左衛門 同清左衛門吉次 鰐淵将監吉廣 神九郎兵衛吉久 山内弥五左衛門 壁田図書吉澄 同七郎吉房 清水三郎左衛門 岩崎宗左衛門 増井五郎左衛門 木田宗兵衛宗俊 田房十郎左衛門秀勝 西島彦五郎吉尚 鳥居与七 十九歳 悉く敵と引組々々 刺違て尸は軍門に曝すと云えども 名は古今無双の功に残せり 去程に朝倉三郎景胤 同孫三郎景健 夜もほのほのと明は一合戦せんとて 駒引返せば 朝倉彦四郎 河合安芸守 詫美越後守 其外宗徒の人々続て返し合 敵二三百騎が中へ魚鱗に成て駆入 東西南北へ破て通り 四方八面を切て廻る程に 寄手の大軍も駆立られて 前田 佐々 福富なども宜々に成所に 木下藤吉郎 五百騎計にて折合 皆悉く討捕ける 其人々には 朝倉治部大輔 同彦四郎 同土佐守 同掃部助 河合安芸守 一色治部大輔 詫美越後守 窪田将監 細呂木治部少部 伊藤九郎兵衛 中村五郎右衛門 同三郎兵衛 同新兵衛 長崎大乗坊 引壇六郎三郎 小泉四郎左衛門 神波宮内助 溝江左馬允 青木隼人佐 並右兵衛大輔龍興 此仁は美濃之国主たりと云えども 信長に国を奪はれ 縁者の好たるにより 義景を頼みて 越前に御座しけるが 願う所の幸なるとて 今度の陣に進発し 討れ給うこそ無慚なれ」

 

 

差異はあるものの、両者とも朝倉氏の武将の名前を詳細に記している。『信長公記』の信憑性についてはここでは触れないが、『朝倉始末記』は後世の軍記物で人物の諱等、信頼は置けない。但、原本については天正期に朝倉氏の関係者の手によって成立したとも思われる。

戦国史研究でもっとも信憑性が高いものは当人が発給した文書であるが、幸いなことに当の織田信長上杉謙信に宛てた書状が現存している。日付は八月二十日で刀根坂の戦いの七日後である。

 

 

「数日を移さず越前陣所へ夜を籠め切り懸け追い崩し 朝倉掃部 同孫六 同治部上丞、 同土佐守 同権守 山崎長門守 詫美越後守 印牧右衛門尉 河合安芸守 青木隼人佐 鳥居与七 小泉藤左衛門尉 初めその外歴々の者ども三千余討ち捕り 木の目追い越し 府中に陣居え候処に 義景一乗明け 大野郡引き退き候条 彼の谷初め国中放火候事」

 

 

やはりここでも山崎吉家・河合吉統の名前が見え、特筆する人物だったのだろう。それと同様朝倉氏一門の名前も見える。ここでは余り知られていない朝倉氏一門、つまり同名衆について取り上げてみたい。

朝倉同名衆については足利義秋が永禄十一年(1568)、一乗谷の義景屋形に御成になった時の記録があるので下に記した。(『朝倉義景亭御成記』)

 

 

式部太輔(景鏡) 孫三郎(景健) 次郎左衛門尉(景尚) 修理進 孫六(景茂) 修理亮(景嘉) 右馬助(景富) 次郎右衛門尉(景種) 右京進 阿波賀小三郎(景堅) 向駿河守(景乙) 三反崎虎松 権守 掃部助 出雲守(景亮) 溝江大炊允(景家) 藤三(景嘉) 溝江三郎右衛門尉 左近允(景満)

 

 

ここでの順番がそのまま朝倉同名衆の席次であったと思われるが、敦賀郡司の景紀・景恒父子の名前がないのは、景鏡と筆頭の座を争い不参加であったからだと言われる。同名衆同士の不和が見え、これが後の朝倉氏滅亡に繋がるのが、非常に興味深い。他にも朝倉治部上丞(治部大輔・治部少輔)の名前がなかったり、系図上で義景の弟とされる播磨守義弘の名前がない。治部丞については別に述べるが、義景弟については朝倉氏の系図が、『朝倉始末記』を元に作成されたと思われ、治部大輔=義景弟と考えられていたようだ。しかし信長の書状によると治部大輔・治部少輔は誤りであり、正しくは治部上丞。恐らく治部丞景遐のことだと推測する。朝倉氏の系図はいくつかあるが、一乗谷朝倉氏遺跡博物館でも誤った系図を載せていて残念である。

 

 

朝倉掃部助景頼

 

信長の書状において討ち取った武将の筆頭に挙げられているのが掃部助である。この掃部助家と土佐守家は当主教景の弟、遠江守頼景を祖とし、長禄合戦(1458~1459年)では掃部助は守護斯波氏側に与し孝景(初代)に罰せられたが、後に一族が名跡を継いだと見られる。寺島城城主(池田谷の内、寺島村という所に有)ともあるが詳細は不明。古図を見ると一乗谷に朝倉掃部助の屋敷があったことが確認できる。

 

当代の掃部助は朝倉始末記では景氏とあり、系図では景郡の子、義景の従兄弟とされるがこれは疑わしい。(養子の可能性もあるが) 朝倉始末記は金ヶ崎城の援軍で兵八百を従え出陣し、刀根坂では義景に疋壇まで退くよう進言した後、自らは織田軍に切り込み討死したとある。

故松原信之先生の『越前朝倉氏の研究』によると諱は景頼で、永禄四年(1561)、義景が興行した犬追物で与七の名前が見え、永禄八年(1565)年十二月頃から掃部助を名乗ったとされる。『朝倉義景亭御成記』では十四番目に登場し、御手長を務めている。一乗谷朝倉氏遺跡博物館の石造物検索システムによると、一乗谷周辺に元亀四年(1573)三月の日付と願主景頼と推測できる石仏が5体以上散在しているが、その内の1体が一乗谷朝倉氏遺跡博物館に、永昌寺(東郷)に1体あるのを確認済み。

 

一乗谷朝倉氏遺跡博物館

 

 

永昌寺

 

 

三万谷の白山神社に2体あるようだが、発見できず。(場所が移されたか)

三万谷白山神社

 

 

 

私見だが一乗谷城に破壊された石仏(千手観音像か)があり、これも類似しているように見える。

一乗谷城

 

 

石仏の願主が確認でき、当時の武将の信仰が知れる貴重なものであるが、元亀四年三月、朝倉掃部助景頼は石仏(千手観音)に何かしらの救いを求めた。それは朝倉家の繁栄を願ったのか、滅びゆく我が身を憂いたのであろうか…

 

※景氏は景頼の子の可能性もあり、松原信之先生は著書にそのように書かれていた。

 

 

 

 

 

 

梅本坊公事

京極高延(高広)と高吉の家督相続争いは大永三(1523)年三月九日の大吉寺の梅本坊公事から起こったという。(『江北記』)

この公事についての詳細は不明だが、京極氏の家督について何かしらの動きがあったと推測される。しかし昨日述べたように高吉はすでに佐々木一族の大原氏を名乗っており、京極氏の家督は高延(高広)が継ぐことが決まっていたはずである。(仮に吉童子丸が高広なら24歳、高吉は20歳、高清は入道し64歳になっている。)

それとは別に大永元(1521)年に七月十四日に上坂家信が死去し治部丞信光が継いだことも事の発端となった。上坂家信は元は政経・材宗派であったが、後に高清派に鞍替えし騒乱を治めた功労者である。家信は文亀元(1501)年六月に材宗派の浅井・三田村・堀・渡部らと合戦をしているが、中でも浅井・三田村・堀は根本当方被官と記された一族であることも注目したい。(この浅井氏は亮政の実父の蔵人直種で討死したという説が有力。)

『江北記』は和睦成立後の25年間は無事であったというが、これは計算が合わない。恐らく材宗は殺害されたと思われることから、『江北記』の作者の下坂氏は終始高清派であったことから意図的に書かなかった可能性が高い。

浅見東陽像賛によると高延(高広)・高吉兄弟が数年に渡って不和であったことは間違いないが、国衆同士の争いが複雑に絡んでいるのは間違いない。『江北記』には浅井・三田村・堀・今井といった牢人衆が浅見(貞則)と図り上坂信光に対して兵を挙げたとあるが、浅井・三田村・堀は先の合戦で材宗方で戦い、ここで牢人衆としていることは偶然ではないだろう。この浅井氏は亮政であると思われる。上坂信光は小野江城(尾上城)に立て籠った牢人衆を攻めたが、敗れて今浜城を破却され逃亡している。苅安尾城上平寺)にいた京極高清も上坂信光に同心していたため、六郎(高延・高広)を残し大原五郎(高吉)と共に尾張へ落ち延びている。国衆はその後上手を焼き尽くしていることから、一連の騒動は国衆の謀反とも受け取れる。その後、高延(高広)は神照寺へ入り、浅見(貞則)が御供し小野江城(尾上城)に移ったとある。

 

『江北記』の記述は残念ながらここまでである。(その後に内保合戦のことが僅かに書かれているので編集段階で抜け落ちたか。)

その他の記録は『長享年後内兵乱記』に、北郡上坂治部信光没落閏 三月京極宗意出奔とあるようだ。

 

 

 

京極騒乱について

室町時代、幕府の四識と呼ばれる役職に付けたのは赤松・山名・一色・そして京極氏である。しかし度重なる内乱で幕府の権威が弱まると、各地で有力な大名に取って代わられ、次第に没落していくこととなる。その中で唯一大名として近世まで命脈を保てたのは京極氏のみである。京極氏の本性は佐々木氏で一族の著名な人物として佐々木道誉がいる。近江の戦国史となるとその被官であった浅井氏のことばかりがクローズアップされ、京極氏について語られることは少なく、まとまった研究は進んでいないのが現状である。特に京極騒乱と呼ばれる二度に渡る家督争いについては不明な点が多く、謎が残る。詳しくはwikipediaなどを見ていただきたいが、一度目は持清の死後、高清と政経・材宗父子が争い、二度目は高清の子、高延(高広)と高吉が争っている。そんな中で新たに台頭してきたのが浅井氏という訳である。

 

近世京極氏の祖の高次・高知兄弟は高吉の子で高清の孫とされている。高清という人物がこの騒動の鍵を握っているが、一度目の騒乱で政経・材宗父子に勝利したのに、長男の高広ではなく次男の高吉に継がそうとして、再び家督相続争いを起こしてしまったという。これだけ見ると家中の統率もできない愚かな人物だという印象を持つが、実はこれらの争いは応仁の乱に端を発した国衆同士の争いという側面も強い。さらに京極氏の家系図だけでは分からない複雑な出自も影響しているように思える。

 

持清の子には勝秀・政光・政経・高清がおり、当初は嫡男で足利義勝から偏諱を受けた中務少輔勝秀が継ぐことになっていた。しかし勝秀は持清に先立ち1468年に早世してしまう。そこで勝秀の嫡男の孫童子丸を六郎政高(政経)が後見することとなるが、孫童子丸には庶兄の乙童子丸(高清)がおり、これを不憫に思った持清は自分の養子として育てたとされている。その後1470年に持清自身も亡くなり、黒田氏の家督を継いでいた四郎政光が乙童子丸を担ぎ、孫童子丸・政経と争った。騒乱の中で黒田政光と孫童子丸は死去するが、争いは更に激化して政経と高清が長年に渡り争うこととなる。

 

『大乗院寺社雑事記』に孫童子丸は文明四(1472)年に京極入道孫九歳童とあるが、文明三(1471)年7月頃に死去したと思われ、逆算すると1464年の生まれとなるが、高清はそれより年長で1460年生まれとされる。高清の長男の高延(高広)の生没年は不明だが、次男の高吉は(1504~1581)とされる。そして高吉の長男の高次は1563年生まれである。つまり高清と高次は103歳年が離れていることになる。更に高吉の次男・高知は1572年生まれで、人生五十年と言われる時代に高吉は69歳で子を設けたことになるが、明らかに無理があるように思える。(他にも三人女子を設けている。高吉についての謎は後日述べる。)

 

一つ目の疑問は高延(高広)・高吉は高清の実子か、本当の兄弟かという点である。高清と政経・材宗父子の家督争いは政経が出雲に戻り、永正二(1505)年に材宗が高清と日光寺で和睦したことにより終焉を迎えた。(『江北記』)

恐らくこの時に家督について取り決めがあったものと推測され、高清は永正三(1506)年以降、佐々木中務少輔入道を名乗っているのが確認できる。一方の材宗も宗忠を名乗っているが、これは法名かもしれない。(『竹生島文書』)

しかし騒乱は収まらず永正四(1507)年に材宗は高清の手により殺害されている(『東寺過去帳』)

それに対して永正五(1508)年に出雲にいた政経は臨終の際、孫の吉童子丸に家督を譲ろうとした。(『佐々木家文書』)

東寺過去帳には「子息ハ九才」と注釈があり、この記述通りなら材宗と共に殺害されたとも解釈できるが、恐らくこの子息は吉童子丸のことだと思われる。材宗の未亡人はその後出雲に下向したようだが、吉童子丸のその後の行方は分からない。そのためネットではこの吉童子丸こそ後の高吉であるとしている記事があるが、それだと高清は実子の高延(高広)でなく、材宗の子の高吉に家督を継がせようとしたということになる。高吉は最初は大原五郎という名乗りであった。つまり最初から京極氏の家督は高広(高延)が継ぐということに決まっていたのである。この時、高延(高広)を支持した浅井亮政ら国衆と、高吉を支持した高清・上坂信光らの対立が二度目の家督相続争いだが、高延(高広)・高吉が実の兄弟かということは『幻雲文集』浅見東陽像賛において、六郎(高延)と族弟五郎(高吉)とあり、『東浅井郡志』ではこの族弟がどういう意味を指すのか分からないとしている。(ただし『羽賀寺年中行事』では六郎殿御舎弟五郎殿とある。)

 

高延(高広)の仮名の六郎であるが、政経も六郎を名乗っている。しかし同時に高清も六郎を名乗ったという記録もあり、持清も六郎を名乗ったとされているので、京極氏の当主の名乗りと思われるが、政経は持清・勝秀の没前から六郎高秀である。とすると勝秀の仮名は三郎で、高清は本当に六郎かという謎が生まれる。(京極氏系図では高清の子の高峯も三郎である。ただし架空の人物と思われる。)

 

高延(高広)の生没年は不明としたが、ある程度推測することは可能で、高広は1553年頃まで生存が確認できるため吉童子丸と同じ1500年頃の生まれでも矛盾はない。

仮に高広(高延)こそが材宗の子であったとしたら、第二次京極騒乱と呼ぶべきこの争いについての理解が深まる気がするが、如何であろうか…

 

それと永正七(1510)年に佐々木五郎の名前が見えるが、大原五郎のことだろうか?

高吉が成人していたとは思えないので、別の人物…高吉の実父か養父か。大原氏は佐々木一族で六角・京極・高島と別れた家。大原氏の系図は不明だが『東浅井郡志』は政重が早世し京極家から高慶、六角家からは高頼の次子高保が養子に入り中務大輔を名乗ったとしている。文明十四年に大原竹熊殿とあるのは政重のことか。