京極高吉について

少し長いですが、まずは下の文章を読んでいただきたい。

 

「説教を聴きに来た人々の中には京極(高吉)殿と称される近江国の本来の領主がいた。彼は領地を失ったが、信長から寵愛を受けることになった非常に偉大な殿であり、安土にあるもっとも立派な邸の一つに住んでいた。彼はその妻とともに(キリシタン宗門の)説教を聴くことにした。彼女は禅宗の信徒で、その教えに通暁していたので、ロレンソ修道士と四十日間議論し続けた。彼女の溌剌とした才能、またやすやすと答弁したり質疑する叡知には、一同が目を見はった。彼女はついに、霊魂の不滅、ならびに来世において受ける栄光と懲罰を信じることができるようになったが、それらは禅宗が否定していることであった。かくて両名はともに、(キリシタンの)教理の説教を十分理解した上で洗礼を受けた。彼らはきわめて高名な人物であったから、キリシタンにとっては大きい慰めとなった。彼らには一人の幼い娘がいたが、彼女もキリシタンとなった。

その後ほどなくしてデウスの御旨により、京極殿は世を去った。その死はあまりにも突然訪れたので、異教徒であった息子と家臣たちは異なった考えを抱いた。というのは、彼らはその死は神と仏の罰であると思って恐れをなした。平素、異教徒たちは、我らを誹謗するためになんらかの機会を利用しようと欲していたので、そのように言うのである。だが彼の妻は、忍耐強く、毅然としてこの出来事をデウスの御業として受け取り、幼いキリシタンの娘と二人だけが家に留まって、徳操の栄誉、亀鑑というのにふさわしい生活を送っている。」

 

(『完訳フロイス日本史3』 26-27項)

 

「説教を聴いた者の中に、かつて近江国の国主であった貴人がいたからである。彼は領国を失ったとはいえ、信長の庇護の下にあって今や偉大な殿であり、当城下にあるもっとも立派な邸宅の一つを所有していた。京極(高吉)殿と称するこの貴人は夫人と共に説教をことを決心したが、デウスのことをたいそう好むので四十日間続けて説教に耳を傾けてこれをよく悟り、四十日の終りには二人とも洗礼を受けた。この貴人たちには十一、二歳の幼い子息が一人あって、この頃、他所で信長に仕えていた。父親は彼が帰った時に家族全員と共に洗礼を受けさせることに決めていたが、それより数日後、我らの主が父親を御許に召し給うたので、その望みは叶えられなかった。彼の死によってその子息ならびに家人は皆、依然として異教徒のままであり、父の死は神と仏の罰によるものと考えて非常に畏れた。」

 

(『十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期6巻、同朋舎、1991年、54-55頁。 1582215日付、長崎発信、ガスパル・コエリュ師のイエズス会総長宛、(1581年度)日本年報』)

 

 

 

上に挙げたのはキリシタンによって京極氏について書かれた箇所を抜粋したものだが、内容が違っているのはやはり訳した原本が違うのだろうか?(翻訳者は同じ)

後者はWikipediaより引いたもので、現時点では確認は取れていない。これらの記述から京極高吉について解き明かしていきたい。

 

まず1581年時点での京極家の人々の年齢を挙げてみる。高吉78歳、マリア38歳くらい、高次19歳、高知10歳、龍子?歳、松雲院?歳、マグダレナ?歳となる。十一、二歳の幼い子息とあるのは年齢的に見て、次男の高知のことだと思われる。長男の高次の名前が見えないのはすでに織田信長の直臣として働いていたと見るべきか。同様に龍子・松雲院もすでに嫁いでいたと思われ、幼い娘とはマグダレナのことであろう。マリアの実家・浅井氏の菩提寺の徳勝寺は曹洞宗であり、禅宗の宗徒という記述はうなづける。高吉はかつての近江の国主で信長が庇護しており、安土城下に立派な邸宅を与えられていた。

落ちぶれたとはいえ、京極氏の名声は衰えていなかったことが分かる。京極氏が江戸時代以降も存続できたのは、こうした過去の栄光の賜物であろう。(それに加えかなり運も良かった)

 

さて本題移るが、高吉の年齢の78歳(1504~1581)は、家族の年齢と比べると不自然に思えないだろうか。しかし清瀧寺徳源院にある高吉の宝筐院塔には天正九年正月二十五日没道安とあり、(2022年現在拝観休止のため、現地で確認できていません)京極氏の系図でも同様の記述があるという。確かな史料においては当時の文書に高慶という名前があり、『江北記』にも大永三年(1523)三月九日、梅本坊公事において大原五郎は兄・京極六郎と家督を争ったことが書かれているので、1504年生まれは妥当であると言えよう。しかし急死したとはいえ、78歳で死んだことについて神や仏の罰と言うのは少々無理があるのではないか。

(別の外的要因である可能性もあるが、その事は触れられておらず、突然死であった)

人生50年と言われる戦国時代においては大往生だと思うが如何であろうか?そこで生まれる疑問は大原五郎=高慶≠高吉ではないかということである。

 

改めて系図を見てみたい。高清‐高峯‐高秀‐高吉‐高次とあり、高清と高吉の間には2代別の人物が入っている。

高清は政経・材宗父子と京極氏の家督を争い、自らの後継には長男・六郎高広ではなく次男・五郎高慶を推した人物として知られ、持清(1470年没)か、勝秀(1468年没)の子として生まれ、生年は1460年か1464年とされているが、1563年生まれの孫の高次とは100年くらい歳が離れていて、やはり不自然である。

系図を作成する際にも、そういった疑念が生まれたのではないかと思われる。高清は1538年に没しており、こちらも75歳くらいとかなり高齢であるが、没年については『東浅井郡志』で確認することができる。

系図によると、高清の後の高峯には高秀以外に長松軒・香集軒(刑部少輔)・青雲寺の3子があり、こちらも検証は必要だが、恐らく高峯=六郎高広(高延・高明)、

長松軒=大膳大夫晴広(『対馬宗家文書』)、

香集軒=高成(『永禄六年諸役人附』には治部大輔とあるが治部少輔の間違いか)、

青雲寺=玉英(『東浅井郡志』青雲寺は 若狭にある栖雲寺のことか)である。

高峯の後に高秀の名前が続いているのは、これは親子関係ではなく、家督相続順を表したものとも受け取れる。

 

「将軍義晴に従いて戦功あり。義晴薨去の後上平寺に帰りて蟄居し、尋で卒す。卒去の年は家記に弘治二年(1556)とし、四讃府誌には天文十九年(1550)十一月四日とす、何れが是なるを知らず。台嶺院殿道也。武蔵守。高吉の父。妻は六角氏綱の娘。」(こちらの出展元は未確認です。)

この人物こそが京極高慶のように思えてならない。

 

次に高広の子として挙げた晴広という人物だが、室町幕府滅亡後の足利義昭に付き従い、天正年間には朝鮮と交渉していた記録がある。名前の晴の字は当然、足利義晴偏諱であると思われるが、仮に高広(1500年頃の生まれ)が後に改名したとするとかなりの高齢になってしまう。義晴は天文十九年(1550)五月四日に没しているが、『東浅井郡志』によると同年(と推測される)六月二十六日に下坂左馬助に宛てた高広の書状があるので、高広=晴広は否定できるだろう。『厳助往年記』・『天文日記』では天文年間後半になっても(京極・佐々木)六郎の名前が見えるが、高広は50歳近くになっても六郎と呼ばれていたのだろうか?いや、恐らくこれは子の晴広のことではないかと思う

 

文三年(1534)8月に浅井亮政は御屋形様と御曹司様を小谷城下で饗応しているが、失脚した75歳の高清が未だに御屋形様であったと考えづらく、高広・晴広と考えれば納得がいく。実際、御屋形様の横に京極中務少輔高峯と注釈があるが、これは後世のものだろう。

 

さらに天文九年(1540)に「元光之御娘人十七歳 六角殿頼定(〇定頼)猶子トシテ 七月十七日ニ南都ヘ御出アリ 其の後北郡京極殿ノ御上ニ成被申了 南北和睦也」とあり、武田元光の娘で六角定頼の養女が京極氏に嫁いでいるが、これも晴広と見るべきだろう。(『羽賀寺年中行事』)

 

江戸時代に書かれた『江濃記』は誤りの多い軍記物だが、天文十三年(1544)に六角・朝倉・関・長野・北畠・土岐といった諸将が京極佐々木氏を攻め、浅井下野守入道休外(×亮政 〇久政)が寝返り、京極六郎は自害、京極家は滅亡し弟の高成は若狭に逃れ、武田氏の扶助を受け後に名字を継ぎ近江守を名乗って、萬松院(義晴)の近習として仕えたことが書かれている。

東浅井郡志』によると天文十三年に京極家が滅亡した事実はなく、高広は天文二十二年(1553)までは活動が見える。しかし私見を述べるとこの記述には一定の事実が書かれているように思える。例えば京極氏と若狭武田氏の婚姻関係、永禄六年(1563)時点で高成の名前が足利義輝の御供衆に見え、京極弟とあること。(これは高広の弟・高慶とも取れるが、前提として高広が生きていないと弟との記述は成立しないのではないか)

高広は天文二十二年の地頭山陥落を境に名前が見えなくなることから陣中で没したのか、晴広・高成らが縁者の若狭武田家を頼ったとすれば理解できる。(三男の玉英は武田義統の猶子という。)

東浅井郡志』では言及はしていないが、清瀧寺徳源院の過去帳には「建徳寺殿宗陽居士 天文廿二年七月廿九日」とあるようで、『佐々木京極氏と近江清瀧寺』でも、その根拠には触れられていないものの、高広は天文二十二年死去としている。

それ以降の京極氏は高佳・道安の名が見えるようになることから、あくまで素人の考えだが、京極氏の家督は高広系から高慶系に移ったのではないかと結論付けたい。

 

東浅井郡志』によると『島記録』所有の文書に浅井新九郎が高弥という人物に沈香を送ったことが書かれていて、新九郎を久政、高弥を高広の子に比定している。

その他に浅井左兵衛久政の書状に上様・若上様の記述があるが、久政が左兵衛を名乗るのは1550年春以降であることから、最初の新九郎は久政ではなく長政のことで、1553年以降に六角氏の支援を受け京極氏の家督を継いだ高慶(系図では高秀)・高弥(後に高佳・道安か。系図では高朝・高吉)を上様、若上様と呼んだのではないか。

 

『天文日記』は残念ながら天文二十二年七月頃の記録が抜け落ちてしまっているが、浅井久政六角義賢に降伏したようで、十二月二十二日条「又左京大夫へ 就北郡本意事 以一章五種十荷遣」と見え、本願寺証如は六角義賢に江北を治めたことに対する祝いの書状を送っている。

久政の娘のマリアが高弥(高佳)に嫁いだのもこの頃だと思われる。浅井長政六角義賢から偏諱を受け、賢政と名乗ったことは有名な話であるが、久政を隠居させた長政は六角氏と決別し、永禄三年(1560)八月に野良田の戦いで破っている。

永禄二年九月と翌三年六月に京極高佳は文書を発給しているが、野良田の戦い以降は道安と名を改め清瀧寺に蟄居したと思われる。後に織田信長が近江に進攻した際に、息子の高次を出仕させたと伝わり、浅井氏滅亡後の近江支配のために一役買ったのだろうか。

 

 

 

こじつけで申し訳ないですが、高慶と高佳。両方とも「たかよし」と読めますが、高慶は「たかのり」と読む可能性もある。(例:畠山義慶)

高弥は「たかみつ」と読むそうです。

 

内容についてはまだまだ精査する必要がありますが、一旦ここで筆を置きます。長々とお読みいただきありがとうございます。