越中遠征と神保氏
2022年は4回富山へ行きました。私が住んでいる滋賀からは近い距離ではないのですが、その目的は越中神保氏について調べるためです。なぜ神保氏にそこまで?と思われる方もいらっしゃるでしょう。戦国武将としてはどちらかと言うとマイナーな神保氏。ゲームでも当主・家臣共にパッとしない能力で、常に上杉謙信の影に怯えているという有様。事実私は今年発売になった「信長の野望・新生」をプレイしましたが、何度も何度も積んで攻略を諦めてしまいました。(私が下手なのもありますが)
神保さんという名字は現代においてそんなにめずらしい名字ではありません。ですが、その方々が越中神保氏とどう繋がってくるのかは、調べてみましたがよく分かりませんでした。東京には古書店街として有名な神保町があり、江戸時代に神保氏がいたことは間違いありません。ですが越中神保氏の痕跡は途絶えてしまっているのです。そこに魅力を感じるのが戦国マニアたる所以でしょうか。
まずここで越中神保氏というのは越中守護代家の長誠-慶宗-長職-長住のことを指します。他にも氏張や昌国という人物も越中で活動していたのですが、関係性が不明と言わざるを得ません。神保氏のことは今年に入って調べ出したのですが、知識はまだまだ不十分で間違っている箇所もあるでしょう。ですがその前提として、調べるための資料があまりにも少なすぎるということ。神保氏の題名の書籍はありません。
越中神保氏の略歴
越中守護代として応仁の乱でも活躍した長誠死後、跡を継いだのが慶宗でした。慶宗は主の畠山家に背き、上杉謙信の父・長尾為景によって攻め滅ぼされてしまいます。一時没落した神保氏でしたが、慶宗の子と推測される長職は婦負郡を本拠地とし、神通川を越え富山城を築き、新川郡の椎名康胤と争います。椎名家に対しては優勢であった長職ですが、椎名氏のバックには長尾景虎(上杉謙信)がいました。謙信に何度も攻められては和睦・降伏を繰り返した結果、神保氏は再び没落してしまいます。
永禄十二年(1569)頃には「神保父子間及鋒楯」と言われるように、長職は嫡男長住と不仲となり長住を追放、元亀二年(1571)頃には長職は隠居し宗昌と名乗り、次男の長城が継いだものと見られています。但、これ以降両名とも名前は史料上確認できません。
元亀三年(1572)九月に富崎城が落城、天正四年(1576)に増山城が落城、その後の長職・長城の行方は一切不明。(長職の没年は1572年頃という説がある)
一方越中を追われた長住の足取りも詳しくは分かりませんが、能登の畠山氏の元に身を寄せていたという説があります。しかし能登も平和ではなく、天正五年(1577)に謙信によって七尾城は落城しました。長住は織田信長を頼ったことが『信長公記』で確認できます。織田家と神保家は婚姻関係であったようです。神保越中と呼ばれた長住は謙信の死後、佐々長穐・斎藤利治らの支援を受け、飛騨から越中へ侵攻します。見事富山城主に返り咲いた長住でしたが、天正十年(1582)に配下の小島職鎮・唐人親広らによって幽閉されてしまいます。織田軍に助け出された長住でしたが、信長が許すはずもなく、再び流浪の身となります。翌天正十一年(1583)年、伊勢神宮に越中帰還の祈願をしているのを最後に、以降の足取りは不明。
私の越中遠征
今年1回目の越中遠征は飛騨神岡町へ行くのに、富山駅から高山本線を経由して入りましたので、神保氏について得るものはなかったのですが、北陸新幹線の車窓から増山城の方を眺めていると、何か沸々と湧き上がるものを感じました。
そして2回目の越中遠征は無謀とも言える原付2種バイクで。越中守山城・放生津城を経てついに富崎城(滝山城)へ。
その後、増山城に行きましたが、不思議なことに神保氏の名跡があるのは支城とされるこの富崎城の方でした。更にこの付近に神保長職が腹を切った際に腰かけた石があると知ったのですが、この時は詳しい情報がなく、断念をせざるを得ませんでした。
そして3回目、富山市郷土博物館(富山城)の「とやま戦国伝承」で神保腹切りの石についての展示があることを知り、いてもたってもいられずに、電車でGO。博物館の方に詳しい場所を聞けたのでした。
ここまで引っ張りましたがついに先日、実に4回目の越中遠征で念願叶って、神保腹切りの石を発見しました。更に何と供養塔まであり、一人で興奮してしまいました笑
案内板によると腹切りの石は沼田の隅とあるが・・・
ひょっとしてこれだろうか???
で問題なのがこの供養塔。
地元の見解では神保長住の墓とされている。ほとんど見えないが天正十年とあるようです。先程述べましたように、富崎城が落城したのは元亀三年。長住は天正十一年も生存している。となると後世の物か… 現地で30分くらい粘ってみましたが、遂に解読できず諦めて帰りました。
そして今日になって何となく写真を見返していたのですが、ひょっとしてこれは「大樹宗茂大禅定門」とあるのではないかと閃きました。そう、つまり神保慶宗です!
とすると天正十年ではなく永正十七年なのか。月日がないのはなぜか。後に刻まれたのではないか。素人ではこれが限界ですので、専門家に委ねたいと思います。参考までに色を付けてみました。どうでしょうか?
終わりに
この供養塔は元々ここにあったものなのだろうか?上杉謙信は書状で富崎城落城について水越某が降伏したことのみ記しているが、私は家臣に裏切られた神保長城が父祖の墓の前で腹を切ったのではないかと想像しています。
神保氏考察についてはまだまだネタがありますが今回はここまで。(書き切れていない内容はまた加筆するかも)
追記:
Twitterで兵衛大夫さんから教えていただきました。
sitereports.nabunken.go.jp/ja/46334
やはり「大樹宗茂大禅定門」のようで、後世に建立された神保長住の供養塔とのこと。しかし明らかに法名・銘文とも間違いで、大乗山蓮華寺『過去留帳』に
天正元年癸酉八月廿日 松雲院殿前左金吾大球宗光大居士 神保越中守殿父
天正六年三月六日寅ノ天 芳春院殿巻顔宗留大禅定尼 神保越中守殿室
とあるようだが、これも信憑性が低い。そもそも天正元年癸酉八月廿日 松雲院殿前左金吾大球宗光大居士とは朝倉義景のことである。なぜ混同されたのかは謎。
せっかく長職の没年が分かったかと思ったのですが、早計でした。やはり長職は元亀三年(1572)五月以前に死去していて、一向一揆の支援を受けた長国(長住?)が増山城に入り、富崎城に逃れた長城が一向一揆に攻められ自害したのでしょうか?