京極騒乱について

室町時代、幕府の四識と呼ばれる役職に付けたのは赤松・山名・一色・そして京極氏である。しかし度重なる内乱で幕府の権威が弱まると、各地で有力な大名に取って代わられ、次第に没落していくこととなる。その中で唯一大名として近世まで命脈を保てたのは京極氏のみである。京極氏の本性は佐々木氏で一族の著名な人物として佐々木道誉がいる。近江の戦国史となるとその被官であった浅井氏のことばかりがクローズアップされ、京極氏について語られることは少なく、まとまった研究は進んでいないのが現状である。特に京極騒乱と呼ばれる二度に渡る家督争いについては不明な点が多く、謎が残る。詳しくはwikipediaなどを見ていただきたいが、一度目は持清の死後、高清と政経・材宗父子が争い、二度目は高清の子、高延(高広)と高吉が争っている。そんな中で新たに台頭してきたのが浅井氏という訳である。

 

近世京極氏の祖の高次・高知兄弟は高吉の子で高清の孫とされている。高清という人物がこの騒動の鍵を握っているが、一度目の騒乱で政経・材宗父子に勝利したのに、長男の高広ではなく次男の高吉に継がそうとして、再び家督相続争いを起こしてしまったという。これだけ見ると家中の統率もできない愚かな人物だという印象を持つが、実はこれらの争いは応仁の乱に端を発した国衆同士の争いという側面も強い。さらに京極氏の家系図だけでは分からない複雑な出自も影響しているように思える。

 

持清の子には勝秀・政光・政経・高清がおり、当初は嫡男で足利義勝から偏諱を受けた中務少輔勝秀が継ぐことになっていた。しかし勝秀は持清に先立ち1468年に早世してしまう。そこで勝秀の嫡男の孫童子丸を六郎政高(政経)が後見することとなるが、孫童子丸には庶兄の乙童子丸(高清)がおり、これを不憫に思った持清は自分の養子として育てたとされている。その後1470年に持清自身も亡くなり、黒田氏の家督を継いでいた四郎政光が乙童子丸を担ぎ、孫童子丸・政経と争った。騒乱の中で黒田政光と孫童子丸は死去するが、争いは更に激化して政経と高清が長年に渡り争うこととなる。

 

『大乗院寺社雑事記』に孫童子丸は文明四(1472)年に京極入道孫九歳童とあるが、文明三(1471)年7月頃に死去したと思われ、逆算すると1464年の生まれとなるが、高清はそれより年長で1460年生まれとされる。高清の長男の高延(高広)の生没年は不明だが、次男の高吉は(1504~1581)とされる。そして高吉の長男の高次は1563年生まれである。つまり高清と高次は103歳年が離れていることになる。更に高吉の次男・高知は1572年生まれで、人生五十年と言われる時代に高吉は69歳で子を設けたことになるが、明らかに無理があるように思える。(他にも三人女子を設けている。高吉についての謎は後日述べる。)

 

一つ目の疑問は高延(高広)・高吉は高清の実子か、本当の兄弟かという点である。高清と政経・材宗父子の家督争いは政経が出雲に戻り、永正二(1505)年に材宗が高清と日光寺で和睦したことにより終焉を迎えた。(『江北記』)

恐らくこの時に家督について取り決めがあったものと推測され、高清は永正三(1506)年以降、佐々木中務少輔入道を名乗っているのが確認できる。一方の材宗も宗忠を名乗っているが、これは法名かもしれない。(『竹生島文書』)

しかし騒乱は収まらず永正四(1507)年に材宗は高清の手により殺害されている(『東寺過去帳』)

それに対して永正五(1508)年に出雲にいた政経は臨終の際、孫の吉童子丸に家督を譲ろうとした。(『佐々木家文書』)

東寺過去帳には「子息ハ九才」と注釈があり、この記述通りなら材宗と共に殺害されたとも解釈できるが、恐らくこの子息は吉童子丸のことだと思われる。材宗の未亡人はその後出雲に下向したようだが、吉童子丸のその後の行方は分からない。そのためネットではこの吉童子丸こそ後の高吉であるとしている記事があるが、それだと高清は実子の高延(高広)でなく、材宗の子の高吉に家督を継がせようとしたということになる。高吉は最初は大原五郎という名乗りであった。つまり最初から京極氏の家督は高広(高延)が継ぐということに決まっていたのである。この時、高延(高広)を支持した浅井亮政ら国衆と、高吉を支持した高清・上坂信光らの対立が二度目の家督相続争いだが、高延(高広)・高吉が実の兄弟かということは『幻雲文集』浅見東陽像賛において、六郎(高延)と族弟五郎(高吉)とあり、『東浅井郡志』ではこの族弟がどういう意味を指すのか分からないとしている。(ただし『羽賀寺年中行事』では六郎殿御舎弟五郎殿とある。)

 

高延(高広)の仮名の六郎であるが、政経も六郎を名乗っている。しかし同時に高清も六郎を名乗ったという記録もあり、持清も六郎を名乗ったとされているので、京極氏の当主の名乗りと思われるが、政経は持清・勝秀の没前から六郎高秀である。とすると勝秀の仮名は三郎で、高清は本当に六郎かという謎が生まれる。(京極氏系図では高清の子の高峯も三郎である。ただし架空の人物と思われる。)

 

高延(高広)の生没年は不明としたが、ある程度推測することは可能で、高広は1553年頃まで生存が確認できるため吉童子丸と同じ1500年頃の生まれでも矛盾はない。

仮に高広(高延)こそが材宗の子であったとしたら、第二次京極騒乱と呼ぶべきこの争いについての理解が深まる気がするが、如何であろうか…

 

それと永正七(1510)年に佐々木五郎の名前が見えるが、大原五郎のことだろうか?

高吉が成人していたとは思えないので、別の人物…高吉の実父か養父か。大原氏は佐々木一族で六角・京極・高島と別れた家。大原氏の系図は不明だが『東浅井郡志』は政重が早世し京極家から高慶、六角家からは高頼の次子高保が養子に入り中務大輔を名乗ったとしている。文明十四年に大原竹熊殿とあるのは政重のことか。